純文学とは?
純文学と聞くと、まず芥川賞が思い浮かびます。
そして、次に思い浮かぶのが独特の世界観とちょっと敷居が高いイメージ。
芥川賞受賞作の純文学が難しい本かというと、とても読みやすい本もあります。
いったい純文学って?
今回は、本に関心のある方の純文学への疑問に答えさせていただくために、芥川賞選考委員の方の解説、文学賞の募集要項と近代文学の歴史から、純文学についてまとめさせていただきますね。
現代の純文学とは?
令和の現代、純文学と大衆文学(エンタメ小説)との違いがどこにあるのかは私たち読者の目線では分かりづらくもあります。
一方で純文学と呼ばれている小説には、いくつかの条件があります。
現代の純文学の定義と分類を純文学の文学賞とされる芥川賞選考委員の方の見解と、芥川賞にノミネートされる条件をもとにまとめてみます。
純文学の定義
近代文学の時代の純文学には具体的な定義があり、明治時代の作家 北村透谷によって「学問のための文章でなく美的形成に重点を置いた文学作品」とされています。
現代の純文学の定義
近代文学の時代の純文学には具体的な定義がある一方で、現代の純文学と他の文学作品の垣根は薄れつつあります。
私たち読者の目線では、純文学と大衆文学(エンタメ小説)にはっきりとした違いはないのかもしれません。
2020年の第163回から芥川賞の選考委員をされている小説家 平野啓一郎さんは、ご自身の公式サイトで次のように解説されています。
昭和くらいまでは、「大衆文学」と「純文学」は、はっきりと分かれていました。
中略)
本当のところは、分けられないっていうのが正しいのですが、しかし漠然といまだに分かれていて、読者の中にも純文学作品が好きだという人もいれば、本は好きだけど純文学は読まないという人もいますよね。
僕の思う定義を敢えて言うと、読み終わったときに何かすごく大きな認識や価値観の変化があった、というのが純文学作品に求められるもの、コアにあるものだと思います。
2022年4月23日 平野啓一郎
参照)平野啓一郎公式サイト
現代の純文学の分類
現代の純文学は、「読者が読み終わったとき大きな認識や価値観の変化がある作品」という平野啓一郎さんの定義が当てはまるのかと思います。
もう1つ、純文学作家と呼ばれる方によって描かれた小説が純文学に分類されます。
簡単にまとめさせていただくと、「芥川賞にノミネートされた作品」です。
芥川賞のノミネート作品は、純文学系文芸誌と呼ばれる「文學界(文藝春秋)」「新潮(新潮社出版)」「群像(講談社)」「すばる(集英社)」「季刊文藝(河出書房新社)」の掲載作品、新人文学賞の文學界新人賞(文藝春秋)、文学賞の新潮新人賞(新潮社出版)、群像新人文学賞(講談社)、すばる文学賞(集英社)、文藝賞(河出書房新社)と太宰治賞(筑摩書房、三鷹市)から選ばれています。
芥川賞にノミネートされた作品は、出版社が純文学として分類している小説です。
純文学の誕生と歴史、大衆文学(エンタメ小説)との違い
現代の純文学の位置づけと分類の次に、純文学が誕生した歴史と大衆文学(エンタメ小説)との違いをまとめてみます。
純文学が確立された時代
日本の純文学は、ヨーロッパの文学作品が取り入れられた明治時代前期に確立されています。
北村透谷の「学問のための文章でなく美的形成に重点を置いた文学作品」という発表は、その後の純文学の歴史の始まりになったといわれています。
純文学というジャンルは、1つの作風のまま令和の現代に続いているわけではありません。
登場人物の心の表現を巡って、作風が揺れ動いていた歴史があります。
登場人物の心の表現を巡って、作風が揺れ動いていた歴史
近代文学として誕生した純文学は、心の表現を巡る作風の違いで、明治時代から昭和前半にかけていくつもの作風が生まれています。
自然主義文学
自然主義文学は、フランスの作風に影響を受けた純文学のジャンルの1つ。
始まりは明治時代の前半(1906〜1908年)、田山花袋の『蒲団』とされています。
その後、盛んになった自然主義文学とは「現実を赤裸々に描く」小説と位置づけられました。
反自然主義文学
反自然主義文学は、自然主義文学とは反対に「人生を豊かに描く」小説と位置づけられています。
盛んになった時代は、自然主義文学とほとんど同じ1900年代です。
代表的な小説家には、夏目漱石や森鴎外などの文豪の名前が並びます。
白樺派文学
白樺派文学は、自然主義文学の後に盛んになった純文学のジャンルの1つ。
明治後半から大正前半(1910〜1920年)とされ、武者小路実篤、有島武郎が有名です。
「理想主義・人道主義・個人主義的な価値観」を描いた小説とされています。
新現実主義文学
新現実主義文学は、大正後期に純文学がいくつかの作風に分かれたジャンルの1つ。
1912年から1926年までの大正後半に、白樺派文学でいきすぎた理想的・空想的な作風を見直そうと立ち上がった作家さんらによって、現実感の沸くリアルな世界を描くジャンルとされています。
代表的な小説家は、芥川龍之介、菊池寛、山本有三などいわゆる文豪として名を残す作家さんが多いジャンルでもあります。
新感覚派文学
新感覚派文学は、新現実主義文学と同じ大正後半から昭和初期にかけて川端康成によって提唱された純文学のジャンルの1つです。
川場康成の解説を現代語でまとめると、「多少の脚色はあるものの、実体験を元にした創作作品」「直感的に伝わる文章表現」で描かれた小説とされています。
中間小説の登場
戦後の昭和時代から出版される小説は、明治時代から戦時中の昭和時代までの近代文学と区別して、現代文学と呼ばれるようになります。
出版の自由が解禁されたことで、色々なテーマの小説が出版されるようになり、「純文学作家が描く大衆文学(エンタメ小説)」や「純文学風の表現の大衆文学(エンタメ小説)」が数多く出版されるようになります。
小説ブームが起こったこともあり、純文学と大衆文学(エンタメ小説)の両方の特徴を持つ中間小説が人気を集めるようになります。
大衆文学(エンタメ小説)との違い
純文学と大衆文学(エンタメ小説)との違いについて、読書ブログでは取り上げる「テーマ」で、物語の「ストーリー」、登場人物の「キャラクター」に読者を楽しませる娯楽性(エンターテインメント)を大切にする作品を大衆文学(エンタメ小説)、心の表現と世界観の芸術性を大切にした作品を純文学とさせていただきました。
芥川賞選考委員の平野啓一郎さんは大衆文学(エンタメ小説)の娯楽性には、「読みやすさ」も含まれると解説されています。
エンタメの場合は、一つのエンターテイメント世界として完成されていないといけない。あまり価値観自体を破壊するようなプロットになると、ややこしい思弁的なところに引っかかり、ページをすいすい捲くることができません。だからある程度、読みやすさを前提とする必要があります。
2022年4月23日 平野啓一郎
参照)平野啓一郎公式サイト
解説を純文学の目線で考えてみると、純文学の芸術性には「読みやすさ」は含まれず、作品の世界観が完成していれば良いということになります。
純文学ならではの作風
現代の純文学の定義は、「読者の価値観の変化」を大切にした小説とされています。
物語の世界観が完成していることが、純文学ならではの芸術的な作風でもあります。
ここで、作風が伝わりやすいよう野球のピッチャーの投げるボールの種類、身近な道具と美術品に例えてみます。
直球の大衆文学(エンタメ小説)と変化球の純文学
大衆文学(エンタメ小説)で取り上げられテーマは様々ですが、ストーリーの構成と登場人物のキャラクターなど「小説の型」については共通点があるとされています。
ストーリーの構成は、おおよそ起承転結の形が使われ、何らかの形で物語が完結するように描かれています。
登場人物にも主人公、語り手、脇役、悪役といった役割分担があります。
一方で純文学の作品は、起承転結に当てはまらないストーリーの構成で描かれた小説も少なくはありません。
起承転結の「転」の場面が次々と起こり、伏線が回収されないまま「真相は読者の心のなかに」といった形で締めくくられることもあります。
登場人物の役割分担も、主人公を含めたほとんどが「謎の人物」といった小説もあります。
読者に真っ直ぐ向かってくる大衆文学(エンタメ小説)が直球の小説なら、純文学は想像力がある程度必要な変化球の小説といえます。
機能的な道具の大衆文学(エンタメ小説)と芸術品の純文学
平野啓一郎さんの解説の背景には、純文学の芸術性には「読みやすさ」は含まれていないととらえることもできます。
読みやすさを「使いやすさ」に置き換えて身近なものに例えるとしたら、大衆文学(エンタメ小説)は機能的で使い勝手の良い道具といえます。
一方で、使いやすさよりも美しさや奇抜さが求められる純文学は、「分かる人にはたまらない」芸術品といえるのではないでしょうか?
純文学のまとめ
読者目線では、他のジャンルとの違いがどこにあるのか分かりづらい純文学。
現代の純文学の定義は、「読者が読み終わったとき大きな認識や価値観の変化がある作品」で、出版業界では他の大衆文学(エンタメ小説)とはしっかりと区別されていました。
近代文学の歴史は、読書ブログとしてはまとめておきたいところですが、今回は純文学とは?のテーマに絞らせていただきますね。
独特のストーリー構成と登場人物の個性が、「分かる人にはたまらない」芸術品でもある純文学は、ファンの方にとっては文芸誌の出版会社の文学賞と毎年2回の芥川賞の発表が待ち遠しい小説のジャンルですよね。