1月15日に発表された第162回直木三十五賞。
直木賞予想で毎回お世話になっておりますが、作家 直木三十五に触れたことは多くはありません。
そこで、直木三十五の生涯と作風に迫るまとめページを更新させていただきます。
直木三十五は、1891年2月12日 大阪府大阪市中央区で生まれます。
本名の植村宗一は、作家名の由来にもなっており、「直木」は「植」を分解して入れ替え、三十五は本格的な出版に携わった年齢といわれています。
早稲田大学を学費が支払えず中退した後、1923年に大阪の出版社に勤務、執筆活動をはじめます。
数年後には映画脚本を手がけはじめ、1929年に水戸黄門の原作になる『黄門廻国記』を執筆。
文学作品が映像化される、現代のエンターテイメントの流れを築いたといわれています。
晩年は、結核との闘病が続き、1934年2月24日に43歳の直木三十五は東京都内の病院で亡くなります。
大衆文学という小説のジャンルを生んだ直木三十五の作風は、リアルな世界観とストーリーの臨場感が醍醐味といわれています。
大衆文学の礎となった作風
現代では、直木三十五賞で知られることが多く、「大衆文学の作家」という印象が多い直木三十五。
活躍されていた当時は、作家さんというより脚本家に近い形で執筆活動に携わっていました。
1925年から映画脚本に携わったのをキッカケに、映像化された作品は50本以上といわれています。
映画化のために描かれる作品は、物語のストーリーや登場人物のリアルな活躍を押し出す作風です。
小説が映像化される、大衆文学の流れを作った直木三十五。
その流れは、東野圭吾さんの「加賀シリーズ」や池井戸潤さんの「下町ロケットシリーズ」など現代でも変わらず受け継がれています。
1935年に芥川龍之介賞とともに創設された直木三十五賞は、ストーリーや登場人物をリアルに描いた作家さんに贈られる文学賞の位置付けでした。
2000年以降は、ベテラン作家さんの作品が受賞する機会が多く、ミステリーや政治小説のジャンルでも受賞機会がある文学賞です。
大阪に生まれた直木三十五は、東京都と神奈川県の横浜市内で活動されていたことが知られています。
文学碑「芸術は短く貧乏は長し」
神奈川県横浜市金沢区富岡東4丁目1−21
直木三十五の邸宅跡地に建てられた文学碑。
刻まれた言葉が、アーティストの価値観を語っているようで素敵ですね。
長昌寺の「南国忌」
神奈川県横浜市金沢区富岡東3丁目23−21
直木三十五が眠るお墓があるお寺。
毎年、命日の日には直木賞作家や審査員の方の講演が行われてます。